『関心領域』は、アウシュヴィッツ強制収容所の隣に暮らしていたナチス将校ルドルフ・ヘス一家の日常を描いた映画です。
特徴的なのは、収容所の内部や虐殺の場面を直接は映さず、家族が庭で花を育てたり、子どもたちが遊んだりする「平穏な生活」を淡々と映し出す一方で、背景には銃声や犬の吠え声、煙突からの煙といった“気配”が常に流れ続けていることです。観客はその音や遠景から、壁の向こうで行われている惨劇を想像せざるを得ません。
つまりこの映画は、「ホロコーストの恐怖を直接見せるのではなく、隣で暮らす人々の無関心と日常の中に潜む“悪の凡庸さ”を描く」作品です。
感想
『関心領域』は「ホロコーストを描く」というよりも、「ホロコーストを隣にしながら日常を営む人々」を描いた作品であり、その異様さと不気味さに圧倒されました。
物語の中心はアウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)、そして子どもたち。彼らは高い塀のすぐ向こうで何が行われているかを知りながら、あたかも何事もないかのように暮らしています。庭で花を育て、子どもたちは川で遊び、母親は「この家と庭は私の楽園だ」と誇らしげに語る。けれどもその背後には、常に煙突から立ち上る灰色の煙や、遠くから響く銃声、犬の吠え声、列車の汽笛が重なっているのです。
特に印象に残ったのは、家族が庭でピクニックを楽しむ場面。画面には笑顔と緑が広がっているのに、音だけは絶えず「殺戮の現場」を伝えてくる。観客はその音を無視できず、しかし登場人物たちは完全に聞こえないふりをしている。この断絶が、まさに「悪の凡庸さ」を突きつけてきました。
また、ヘドウィグが夫の転属の話を聞いて激しく取り乱す場面も忘れられません。彼女が失うことを恐れているのは「家族の安全」ではなく「この理想的な家と庭」であることが露わになり、背筋が凍りました。人間の欲望や執着が、隣で行われている大量虐殺よりも優先されてしまう現実。その冷酷さに言葉を失いました。
映画は決して収容所の内部を映しません。代わりに、音響とわずかな視覚的サイン――煙、灰、遠くの光景――で観客の想像力を刺激します。終盤、現代のアウシュヴィッツ博物館の清掃員が展示室を掃除するシーンが挿入されるのも衝撃的でした。山積みの靴や囚人服を前にしても、人は日常の作業を続ける。その姿は、過去のホス家族と地続きに見え、「私たちもまた同じように慣れてしまうのではないか」という不安を突きつけられました。
観終わった後、私は強烈な不快感と同時に「これは自分たちの問題でもある」という感覚にとらわれました。戦時中のドイツ人家族を笑えない。現代の私たちもまた、世界のどこかで起きている暴力や不正義を「壁の向こうの出来事」として無視しているのではないか。
『関心領域』は、派手な演出や感情的な音楽に頼らず、むしろ淡々とした家庭の風景を通じて、観客の心に深い傷を残す映画でした。美しい庭の緑と、見えない場所で燃え続ける炎。その対比が、今も頭から離れません。
この映画は「ホロコーストの物語」ではなく、「人間の無関心の物語」だと、私は強く感じました。
物語の起承転結
起
1943年、アウシュヴィッツ収容所の隣に住むヘス一家。指揮官ルドルフは仕事をこなし、妻ヘドウィグは庭や温室を誇りに思い、子どもたちは無邪気に遊ぶ。家庭は幸福そのものに見える。
承
しかし、壁の向こうからは銃声や叫び声、煙突の煙が絶えず漂う。観客は「日常」と「虐殺」の同時進行を突きつけられる。ヘドウィグの母も訪れ、娘の生活を羨むが、背後の現実には目を向けない。
転
ルドルフが転任を命じられ、ヘドウィグは「この家を離れたくない」と泣き叫ぶ。彼女にとって最大の問題は「理想の暮らしを失うこと」であり、隣で行われる大量虐殺ではない。やがてルドルフは再びアウシュヴィッツに戻り、ハンガリー系ユダヤ人の大量移送を指揮することになる。
結
ラスト、ルドルフは暗闇の中で吐き気を催すように立ち止まり、わずかな良心の影が示唆される。そして場面は現代のアウシュヴィッツ博物館へ。清掃員が展示室を掃除する姿が映し出され、過去の惨劇が「日常の一部」として扱われる現実が観客に突きつけられる。
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