映画『関心領域』感想とあらすじ

この作品は、アウシュヴィッツ強制収容所の指揮官ルドルフ・ヘスとその家族の「日常」を描いた作品です。驚くべきは、ホロコーストそのものを直接映さず、壁一枚隔てた家族の平凡で幸福そうな暮らしを淡々と映し出す点にあります。庭で遊ぶ子どもたち、花を愛でる妻、家庭を支える母親。そこに重なるのは、遠くから聞こえる銃声や犬の吠え声、煙突から立ち上る煙といった「音」と「気配」だけです。

観ていて、強烈な不快感と不気味さがありました。なぜなら、登場人物たちはその異常を「日常」として受け入れ、無関心に暮らしているからです。一方で、この映画は従来のホロコースト映画のような劇的な物語や感情移入できる人物が出てこないので、直接的な描写というよりも間接的な描写が続きます。そのため「退屈」「物語性が乏しい」と感じる人も少なくないかもしれません。しかし、あえて物語を排し、観客に「見えないものを想像させる」構造にすることで、自分の感覚や倫理観を試す作品となっています。

ラストで現代のアウシュヴィッツ博物館の清掃風景が映し出される場面は、過去と現在をつなぎ、私たちがいまも「壁の向こう」を見ないふりをしていないかのメッセージの問いかけもあります。日常の中で他者の苦しみを無視することは、時代や場所を超えて繰り返される人間の弱さなのだと痛感させられました。

この映画は決して娯楽的ではなく、むしろ観る者に忍耐と覚悟を要求すると感じたが、見る価値のある作品で、「人間はいかにして残酷さを日常に組み込んでしまうのか」という問いを突きつける、忘れがたい体験となりました。

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物語の起承転結

1943年、アウシュヴィッツ収容所の隣に住むヘス一家。指揮官ルドルフは仕事をこなし、妻ヘドウィグは庭や温室を誇りに思い、子どもたちは無邪気に遊ぶ。家庭は幸福そのものに見える。

しかし、壁の向こうからは銃声や叫び声、煙突の煙が絶えず漂う。観客は「日常」と「虐殺」の同時進行を突きつけられる。ヘドウィグの母も訪れ、娘の生活を羨むが、背後の現実には目を向けない。

ルドルフが転任を命じられ、ヘドウィグは「この家を離れたくない」と泣き叫ぶ。彼女にとって最大の問題は「理想の暮らしを失うこと」であり、隣で行われる大量虐殺ではない。やがてルドルフは再びアウシュヴィッツに戻り、ハンガリー系ユダヤ人の大量移送を指揮することになる。

ラスト、ルドルフは暗闇の中で吐き気を催すように立ち止まり、わずかな良心の影が示唆される。そして場面は現代のアウシュヴィッツ博物館へ。清掃員が展示室を掃除する姿が映し出され、過去の惨劇が「日常の一部」として扱われる現実が観客に突きつけられる。

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